水際で待つ



 逃げ水が揺らめくアスファルトの上、蝉の大合唱の中を、俺と浩介は汗を流しながら自転車を走らせていた。
「そうだ。お前、夏期講習どうする?」
 並んで自転車のペダルを踏む浩介が、そう訊ねてきた。
「……お前な、そう言うテンション下がる話やめてくれよな」
 言いながら俺はあーあ、と空を振り仰いだ。夏休みまであと5日。空は書割のように青かった。もくもくとした入道雲の白さが目に痛いくらいだ。
 昨年の夏は高校受験を控えて、夏らしい過ごし方が出来なかった。だからこの夏こそはと浮き立つ気分で遊びの計画を立てていたというのに、今の一言で気分が台無しだ。浩介の馬鹿野郎。
「俺らまだ1年だぜ? そんなの別にいいって」
「でもなあ、平木も誠も受けるって言ってたぜ?」
 浩介が口にした名前は学校でいつもツルんでる連中だ。あいつらマジか。いや、平木の奴は予想通りか。
「じゃあ浩介は受ければいいんじゃねぇの? 俺は勘弁な」
 俺の通う県立高校は、地元じゃちょっと名の知れた進学校だ。だからその分、入学直後から真面目に勉強に励む奴らも多い。平木や誠もそうだ。平木に至っては、この間の模試でバケモノみたいな偏差値を叩きだしていた。まあ、それは置いといて。
 俺はそこまでしなくていいかな、と思っている。別に勉強がどうでもいいってことではなく、今はまだ将来どうしたいかなんてわからないから。自分の進みたい道を見つけてからでもいいんじゃないか? 勉強なんて。俺はそう思ってるわけ。
「それに、3組の中川も受けるって話だけど」
 急ブレーキ。
 数メートル行き過ぎた浩介は、律儀に引き返してくる。顔にはニヤニヤ笑いを貼り付けて。
「何で知ってるんだ?」
「平木情報。あいつ、中川と同中だろ。結構、話すみたいだぜ。どーする? 思わぬライバルとーじょーかぁ?」
 妙に節を付けてそう言う浩介の車輪を、俺は思い切り蹴ってやる。案の定バランスを崩した浩介は、間抜けな声をあげながらも、何とか倒れまいとした。
「あっぶね! お前なぁっ!」
 叫ぶ浩介を放置して、俺は再びペダルを漕ぎ始めた。
 しかし頭の中で考えていることは、さっきまでとは打って変わって夏期講習をどうするか。
 だって、これはまたとないチャンスじゃないのか?
 3組の中川。中川由希。
 ぼんやりと彼女の姿を思い描く。小柄でふわふわの髪が肩に零れかかってて、笑顔がとびきり可愛い彼女を。
 俺はまあ何と言うか…彼女が気になっているわけで。
 しかし悲しいかな、クラスが違う上に口をきいたこともない俺は、彼女と何の接点もないわけで……。え、それで何で気になってるかって? ……一目惚れだよ悪いかこのやろー。
 ともかく、そんな有り様だから、彼女と少しでもお近づきになれるんなら夏期講習もありじゃないか? ありだよなあ。うん、ありだ。
「浩介!」
 俺は浩介を振り返った。浩介はぶつぶつ文句を言いながらも、何だよ、と返事を返してきた。
「俺、受けるわ夏期講習」
 言うや否や、ふてくされていた浩介の顔が緩む。そこに浮かんだのはさっきよりも深いニヤニヤ笑いだったが知るもんか。


「何だ、お前も受けることにしたんだ」
 翌日、担任から貰った夏期講習の申込書を書いていると声がかかった。見上げると平木が覗き込んでいた。その背後には誠の丸い童顔も見えた。にこにこと誠が口を開く。
「じゃあ、休み中も講習でみんなに会えるんだね」
 お前は小学生か。そう突っ込みを入れたくなることも、誠は平気で口にする。でも別に可哀想な子と言うわけではない(実際、頭はかなりいいんだ)。今時、珍しいくらいに純粋培養なんだよな。
「ばぁか、そんなつまんないこと言ってないでさ、夏期講習以外でも遊び行こうぜ」
「海とか?」
 浩介の言葉に、平木の言葉。平木が挙げた候補は夏と言えばこれ、と言った具合にありがちなものだった。しかし、その一言に俺は身震いする。
「わり。海は俺、無理」
「え、何で」
 首を傾ける誠とは対照に、浩介があ、と瞬いた。
「そっかお前、水ダメだったな」
 そう。俺は水が苦手なんだ。それ以上に、恐怖していると言ってもいいかも。
 小学校から同じ浩介はその理由も知っているから、表情がわずかに曇る。平木と誠は高校に入ってからの付き合いなもんだから、俺と浩介を見比べてきょとんとしていた。
「え。何? どしたの」
 あーとか、うーとか唸っている浩介に、思わず苦笑が漏れる。何でお前が焦ってるんだよ。
「俺、子どもの頃に溺れかけたんだよね」
 浩介の様子を見兼ねた俺の告白に、気まずい空気が流れた。
 どいつの顔にも、しまったまずいこと聞いたって心の声がありありと浮かんでいる。別に、こいつらが気にするもんでもないだろうに。
「馬鹿。お前ら何気にしてんの。知らなかったんだからしょうがないだろ。ま、海川プール以外なら喜んで誘われてやるから。安心して、心置きなく誘うように」
「何だその言い方」
 浩介が笑って、誠が噴き出す。平木も苦笑を浮かべて、そうして俺たちは来るべき夏の楽しい計画について話し始めたのだった。


 帰り道。いつものようにいつもの場所で浩介と別れて、俺は自転車を走らせていた。ただいつもと違うことは、通い慣れた市道を逸れて、それに並行するように延びる農道に自転車を乗り入れたことだ。
 俺が住む町はいわゆるニュータウンだ。昔はなだらかな丘陵地だったのが、バブル期に開拓され区分けされて、そこに建売の住宅がまるで押し込められるように並んでいる。
 しかし、やがてその窮屈そうな家並みが徐々に途切れ始める。何でも、ここの開拓を始めた会社がバブル崩壊と同時に業務縮小だかで、手を引いたらしい。まあ、ありがちだな。
 そう言うわけで、結局ニュータウンの外れには、現在でもわずかながら丘陵が――野津山と地元では呼ばれている――残されることになった。野津山はニュータウンの子どもたちにとって、格好の遊び場だった。傾斜の緩い林道を5分も登ればそこはもう頂上で、そしてそこは開けていて、ちょっとした野球やキックベースなんかにはちょうど良かったから。 斜面は、畑やら何やらに使われて、山には常に大人の姿もあった。だから子どもが野津山で遊ぶことを、大人も特に禁じてはいなかったんだ。

 あの事故が起きるまでは。

 当時のことを思い返しながら、俺は農道を走る。市道と並走していた道はいつしか大きく曲がり、まるでニュータウンの外周を抱え込むかのようだ。舗装されていない道はがたがたで走りにくいが、野津山への一番の近道だった。
 やがて農道は行き詰まり、俺は自転車を降りた。適当な場所に止めて施錠して、俺は顔を上げる。右手に軽自動車がやっと1台通れるほどの細い林道が、口を開いていた。そう、この道だ。子どもの頃にわくわくと駆け上がった道は。
 俺は意を決して、林道に足を踏み入れた。意を決してと言うのは、ずっとここを登るのを避けていたから。
 細い道の左右は木々が生い茂り、まだ明るいはずの夏の夕暮れでも薄暗い。大人が野津山で遊ぶのを禁じて以来、子どもの気配が耐えた山はしんと静まり返っている。ただ俺が砂利を踏む音だけが大きく響いて、それがやけに不気味だ。
 わずかの後、視界が開けて当時慣れ親しんだ広場に出た。あの頃は毎日のように子どもたちが地面を踏みしだいていたおかげか、雑草もそれほど生えていなかったのが、今では地面の茶色が見えないほどに雑草が生い茂っている。その荒れた様子に、何だか胸が痛かった。
 足に絡む雑草に四苦八苦しながらも、俺はどうにか広場の端に辿り着いた。正面は雑木林で、一見、これ以上先があるようには思えない。
 俺は木立の間を慎重に擦り抜けた。ほんの数分歩くと木立が途切れる。
 とろりと鈍い緑の光が目に飛び込んでくる。俺は足を止めた。気付けば口の中がカラカラだった。ごくりと何度も生唾を飲み込む。脇の木にすがるようにしながらそっと足を踏み出した。
 目の前に広がるのはごく狭い原っぱのようだった。そのぐるりをロープが囲んでいる。脇には古びて傾いた看板が見えた。丸くくり抜いたように木立が途切れ、シダやコケ、雑草が地面を覆っている。一面緑のそこは、まるで地面がそのまま続くかのようだ。しかし俺は知っている。この緑の下に、冷たい沼がひっそりと存在していることを。そして、その水の中には……。
(――あいつが眠っているんだ)


 あれは俺が10歳になる直前のことだった。
 俺はあの広場で遊んでいたんだ。いつもはニュータウンの子供の中でも、同じ学年で特に仲の良かった7人で遊ぶことが多かったんだけど、その日はいつもと違ってた。7人で遊んでいるところに6年のグループが割り込んできたんだ。
 本当は不満だったけど、体の大きな6年には到底敵わないし、広場を共有することは不文律だったから、俺たちは6年と一緒に野球をすることになった。メンバーは適当にシャッフルして、そうしてゲームが半分ほど進んだ時だった。
 特に体の大きな6年が打った球は、大きく弧を描いて雑木林の向こうに消えた。たまたま外野を守っていたのは俺と達也。達也は俺の家の3軒西隣に住んでいて、いつも俺と一緒にいた。ぽかんとボールの消えた方向を見つめる俺たちに、6年がボールを探して来るように言いつけた。ボールはそれ1つきりだったから、俺たちはぶつぶつ言いながらも結局、言う通りにするしかなかった。
 小枝に引っかかりながら、俺と達也は木の間を通り抜けた。そしてその時初めて、雑木林の向こうに開けた小さな場所があるって知ったんだ。
「こんな場所があるって知ってた?」
 振り返った達也の顔は、おそらく誰も知らないだろう秘密の場所を見つけたことによる喜びからか、輝いていた。達也ははしゃいだ声を上げる。
「すごいなぁ、何だろうここ。ねえ、誰にも言わずに、2人の秘密基地にしようよ」
 秘密基地。その言葉の響きに俺の心は震えた。近くにあるはずの広場からはどういう不思議か、子どもたちの喧騒がちっとも聞こえてこなかった。しんと静まり返ったそこは、まさしく秘密の名に相応しいように俺には思えたんだ。
 それに目の前に広がる地面はふかふかした緑に覆われて、寝転がるといかにも柔らかく体を包み込んでくれそうだった。きっと、そうに違いない。達也に頷いた時、俺はその緑の中に白い球体を見つけた。
 ボールだ。
 運がいいと思った。すぐには見つからないだろうと危惧していたボールが思いのほか早く見つかったのだから。
「あそこ! ボールだ!」
「え? どこ?」
 達也は少し目が悪かった。俺が示したそこを細く眇めた目で見やって、やがてにこりと笑んだ。
「ほんとだ。ラッキーだね」
 俺たちは駆け出した。その瞬間だった。
 突然、足の裏から地面の感触が消失した。あれ、と思う間もなく、俺の体は冷たい水の中に落ち込んでいた。
 何が起こったのか、全く理解出来なかった。ただ体に纏い付く冷たい水の感触に、俺はパニック陥る。何とか這い上がろうと、必死でもがいた。けど、もがけばもがくほど服が絡まり、思うように動けなくなってしまう。服だけではない。水中の藻もまるで俺を引きずり込む意思があるかのように、手に足に、顔に絡んでくる。
 死に物狂いでそれらを引き千切って、俺は必死で水を掻く。鼻や口から水が遠慮なく侵入して来て、視野は段々と赤く濁り、頭が割れそうに痛んだ。
 もう駄目なのかな。
 そう思いながらも、手を大きく掻いた時。
 俺の頭は水面に出ていた。水を飲みながらも、俺は何とか、確かな地面から生える雑草を掴んだ。酸欠に陥っていた体は過剰に酸素を取り込もうとして、息をするたびに喉が切り裂かれそうに痛んだ。涙と鼻水も止まらない。俺はしゃくりあげながら、達也を呼んだ。
 しかし返事はない。もう一度呼ぶが、今度は咳の発作に見舞われた。げほげほ咳き込みながら、俺は達也とほぼ同時に駆け出したことを思い出した。
 そんな、まさかと思いながら俺は背後を振り返った。しかし、俺の視線の先に達也の姿はなく、ついさっきまでは何の乱れもなかった緑の絨毯が、今はかき乱され、ぱっくりと姿を覗かせた水面に波紋が広がっているだけだった。

 そこからどうやって助け出されたのかは、よく覚えていない。次に気付いたら病院のベッドで、そこで俺はただ泣き喚いているだけだった。
 そして達也はそのまま見つからなかった。
 俺たちが落ちたあの沼の底はどこまでもぐずぐずとした泥で、その泥に飲まれたか、髪の毛一筋さえ発見されることはなかった。
 やがて達也の家族は町を去り、野津山で遊ぶことは禁止された。俺もあの沼を、沼の中にいるだろう達也を連想することが恐ろしくて、野津山には近付くこともなくなった。
 そうすることで、俺はあの日の出来事を記憶の奥底に封印してきたのだ。


「――っ」
 そこにあの沼が存在するのだと想像しただけで、体が震えた。
 ロープを掴んで目を凝らすが、緑の下には何の色も見えなかった。
 懐かしい名を呼ぶ。長い間、口にすることもなかった名前だった。達也の名前を口にせず、その姿さえ出来る限り思い出さないようにしてきた。でもそれは、よくよく考えれば不自然なような気がした。
 どうして、俺は達也のことを思い出さないようにして生きてきたんだ?
 ぼんやりと沼を見つめる俺の背後で、木立がざわりとざわめいた。夏にしては冷たく、しかし湿度を帯びた風が吹き付けてきて、俺は顔を上げた。
――だ……め……。
「え?」
 誰かの声がした気がして、俺は振り返った。言いつけを破ることが大好きな悪戯坊主でも広場にやってきたのかと思ったんだ。でも、広場からの物音はここまで届かないはずだったんだけど。俺の記憶違いかな。
 しばらくそのまま耳をそば立てていたけど、それきり何も聴こえなかった。首を傾げながらも、俺はふと頭上の太陽の位置が、随分下に動いていることに気が付いた。
「げ」
 やばい。随分長い間ここでぼんやりしてたようだ。俺は慌ててその場を後にすることにした。最後にもう一度振り返った沼の緑は、どこまでも深かった。


「何だよ、その顔は」
 教室で昼飯を食いながら、俺は浩介たちに沼に行った話をしていた。別に思うところがあったわけではなく、ただ何となく口から零れるようにその話が出ただけだ。そしたら、浩介の奴の顔色が変わった。見開かれた目に、ぽかんと開いた口。汚えな、口の中のパン飲み込めっての。
「え、おま、……ちょ、ちょっと待て」
 牛乳を口に流し込んで、盛大にむせている。何がしたいんだ、こいつは。
 苦しむ浩介の背中を撫でながら、誠が口を開いた。そこで俺は誠まで妙な顔をしているのに気が付いた。何なんだ?
「知らないの? 有名なんだよ、そこ」
「何が」
「……えっと」
 そこで言葉を濁すな。気になるじゃないかよ。
「それにしても、お前が溺れた場所がそこだったなんてな。でも、どうしてわざわざ行ってみる気になったんだ? ずっと避けてたんだろう?」
「うーん、特に深い意味はないんだけど……。ただなあ、ほら、昨日お前らに話しただろ、俺。水が無理って」
 そう、あの話してから、なんか胸がモヤモヤしたんだよ。上手く言えないけど、自分が何かから逃げてるだけのように思えると言うか、何かに負けっぱなしの気がしたって言うか……。ちゃんと気持ちの整理を付けたいと思ったんだよな、俺。
 少しの間自分の考えに没頭していたのか、目を上げると平木はもちろん、浩介と誠までもが固唾を呑んだふうで俺を見つめていた。俺は咳払いをして、
「あー……ほんと、ちょっと思いついただけだって。で、何だって? 何が有名なわけ?」
 最後の部分は誠に向かってだ。誠は躊躇うように浩介と平木を交互に見上げて、ようやく口を開いた。
「……出るって」
「は?」
「だから……出るんだよ」
 何が。主語をきちんと入れろよ。さっぱりわからない。
「子どもの幽霊が出るって有名なんだよ。知らない?」
 子どもの幽霊。その単語に俺は瞬いた。
「何人も見た人がいるって」
「俺たちの市にまで伝わるんだから、噂としては相当だよな」
「……小学校の頃からもう、有名だったんだよ。でもお前、知らなかったんだな」
 事故の当事者だし、耳に入らないように周りの大人がしてくれたのかな。浩介はそう言った。
 事故の当事者。
 何だよ、それ。それって、まるで……。
 まるで、達也の幽霊が出るみたいな言い方じゃないか。
「――ふざけんな!」
 3人が驚いた顔で俺を見る。俺は3人を睨み付けた。
 あいつの幽霊だって? あいつがまだあそこにいるだって? だから、昨日俺が聞いたあの声は、達也の声だって言うのか? ……そんな馬鹿な話があってたまるか!
 腹の底から、わけのわからない激情がせり上がってきた。俺はそれに耐えられず、椅子を蹴って立ち上がる。
「お、おい?」
 浩介が呼びかけてきたが、俺はそれを無視して、教室を駆け出した。


 気が付くと、あの場所にいた。
 昨日と変わらず、何の音もせずにしんとしたそこに、俺の荒い息だけが響いている。ああ、まるであの事故の直後のようだと、そんな奇妙な考えが浮かんだ。同時に、どうしてここに俺は来たんだろうと言う疑問も。
 まるで何かに導かれたようだ。そう思い、引きつれた笑いが漏れる。あの話に感化されすぎだろ、俺。
 木に背を預けて、座り込む。頭を抱えた。
 激情は通り過ぎたようだ。脳は冷静さを取り戻している。そうして考えてみると、俺は3人に対して、何て馬鹿なことをしたんだろうか。あいつらに悪気があったわけじゃないのに。それに、俺は何が怖かったんだろう。俺を支配したあの激情は、純粋な恐怖だった。だけど、どうして。達也の幽霊なら、きっと怖くないはずなのに。だって、友達だったんだから。
 その理由を考え始めた時。
「――?」
 突然、空気が濃密になった。肌に、じとりと重い空気の塊が圧し掛かるような、そんな空気。
 俺は首を傾げた。それまでは俺一人しかいなかった空間に、誰か入ってきたような気がして、きょろきょろとあたりを見回す。
 左右。背後。何度も体を捩って確認する。しかし、そこには木立がただ静かに立ち尽くすだけで、人の姿はおろか、動物もいない。狐につままれたような気分とは、こういうことだろうか。俺は、気のせいだったのかと顔を正面に戻した。

 そこに、白い子どもの顔があった。

 転ぶようにして俺は山を降りていた。実際、途中で足が絡んで倒れこんだ。それでも背後だけは振り返らないように、俺は必死で走った。走って走って、家に辿り着いた時には、しばらく立ち上がれないほどだった。
 三和土に座り込んだ俺を見て、驚いて声を上げる母親。あれこれ聞かれるのが煩わしく、俺は何とか立ち上がると、自分の部屋に向かう。汗にまみれたシャツも脱がずに、そのままベッドに身を投げ出した。
 ほんの一瞬。瞬くほどのわずかの時間だったが、確かに子どもが俺の顔を覗き込んでいた。ぽっかりと開いた黒い空洞のような目と、俺は確かに視線を合わせたんだ。蝋のように青白い肌。色の失せた唇。それらは脳裏に焼き付いてしまっている。
 冷房もかけてない部屋は蒸し暑いのに、俺は悪寒に震えた。震える体を抱きこんで、ベッドで丸くなる。
 アレは何だったんだろうか。俺は、何を見てしまったんだろうか。
――子どもの幽霊が出るって。
 昼間の会話が脳裏に甦る。
 アレがそうなのか。アレが……達也だって言うのか。何年もあそこに縛り付けられているのか。
「……でも、どうしてだよ……」
 乾き始めたシャツの匂いが不快で、丸めた体を伸ばし、俺は仰向けで天井を見上げた。次の瞬間、唐突に理解した。
 達也は俺を恨んでいるんだ。2人一緒に沼に落ちていながら、自分だけ生き残った俺を。そして――。
「俺を、待っているんだ」
 きっと、そうだ。俺があそこに行くのをずっと待っていたんだ。いつも一緒にいた俺が、向こうに行くのを待っているんだ。……でも。
「……それは、無理だよ……」
 その望みは叶えてやれないよ、俺……。お前に恨まれても、仕方がないのかも知れない。けど、俺は新しい仲間のいるこの毎日を、捨てられない。……そっちに行くのは、嫌だ。怖い。
「どうすればいいんだよ……」
 呟いた言葉は、我ながら情けないほどに震えていた。


「俺はすぐ帰るからな!」
 浩介は数メートル後ろをついて来ながら、そう怒鳴っている。俺はちらりと浩介を振り返って、「ああ」と頷いて見せた。

 翌日の放課後だった。
 俺は朝、登校するとすぐに、3人に沼での体験を打ち明けた。3人が前日の俺の態度に腹を立てているかも知れないと思ったが、話さずにはいられなかった。幸い、3人は何事もなかったかのように俺に接し、その上俺の心配までしてくれた。
「……でもさ、本当にその子なのかな」
 俺の話を聞き終えて、誠が開口一番そう言った。予想外のその一言に、俺はまじまじと誠の童顔を見つめた。
「水辺ってさ、幽霊が集まるって言うでしょ。だから昨日見たっていう幽霊も、別の子の幽霊かも知れないよね」
「じゃあ、どうしてこいつの前に現れたんだと思う?」
「うーん……実は霊感が強かったり、する?」
 平木の問いに難しい顔をした後、誠はそう尋ねてきた。俺は首を横に振った。そんなもの、あるはずもない。幽霊を見たのも昨日が初めてだし、今まで金縛り一つあったこともない。浩介が笑い含みに、
「だよなあ、お前、どう見てもノーテンキな顔してるもんなあ」
 うるさい。俺が睨むと、浩介は肩を竦めながら慌てて誠に尋ねた。
「じゃあ、仮にこいつの見たのが別の子の幽霊だとして。どうしてこいつの前に姿を見せたんだろう」
「同調したのかも。事故のことを思い出して沈んだ、寂しい気持ちが。幽霊はみんな寂しがってるって言うしね」
「なるほどな〜」
 お前詳しいな、と呑気に感心している浩介とは反対に、平木は難しい顔をしている。そして、俺を見て口を開いた。
「……それで、お前はどうする?」
 どうする? 平木の質問の意図を図りかねて、俺は首を傾げるしかなかった。
「結局、俺たちがここでこうして話していても、単なる想像でしかない。お前の見たのが何であれ、な」
 そんなことは俺にも分かっている。
「お前はお前の見たものが何なのか、明確な答えが欲しいのか? それとも忘れて何もなかったことに?」
 平木の目は、怯えた俺を馬鹿にしてはいなかった。ただ、純粋に俺がどうしたいと思っているのか、その答えを待っているだけ。
「俺は……」
 本音を言えば、俺は恐ろしかった。あれを見なかったことに出来るのであればそうしたい。……けど。
「あれを見なかったことには出来ない」
 俺は、目の前の3人を順に見つめた。浩介。平木。誠。皆いい奴だ。俺なんかにはもったいないくらい。
 こんないい友達がいるのだから、俺は真実が何でも大丈夫だ。受け止めてみせる。仮にあれが達也で、俺を待っているのだとしても、3人が一緒なら、何とか解決策を見つけられるに違いない。
「……じゃあ、今日の放課後にみんなで行ってみる?」
 言い出したのは誠だ。浩介は「げっ」と唸って、渋い顔をしている。平木はいつも通りの涼しい顔で、「そうだな」と頷いた。俺はびっくりして誠の顔を見るしか出来なかった。気の弱そうな童顔なのに、意外に豪胆だな、こいつ。
「何か、手がかりがあるかも知れないでしょ。みんなで行けば探しやすいし、何かあってもきっと平気だよ」
 誠はにこりと微笑んだ。

 そして今、俺たちは沼へ向かっている所だ。広場を横切り、目の前には沼の存在を隠す雑木林。最後尾の浩介が追いついてくるのを待って、俺は一歩踏み出した。

「……俺、初めてだ」
 ロープの手前で足を止めて、首をぐるりと巡らせながら浩介が呟いている。その隣で誠と平木も、きょろきょろと周囲を見渡していた。
「このロープから向こうは、全部沼なのか?」
「多分……そう、かな」
 平木に尋ねられるが、曖昧な返事しか出来ない。何しろ、1歩踏み出した直後に水の中だったし、ここに2度来た時もロープの手前までしか寄らなかったから、どこからどこまでが沼なのか、正確には俺にも分からなかった。
「一見しただけじゃ、本当に地面にしか見えねえな……下手に動いたらそのまま沼の中とか、嫌だぜ、俺」
 浩介の言葉に、誠が何かひらめいたように、手を打った。ちょっと待っててと言いおいて、木立の中に戻っていく。俺と浩介がぽかんと顔を見合わせているとすぐに戻ってきた。その手には折られた枝が握られていた。
「ほら、こうして地面を突きながら動けば、大丈夫だよ」
 慎重にロープの先に足を踏み出して、誠は自分の数センチ前方に枝を突く。枝は沈まずに、地面の感触を誠に返したのだろう。誠はまた歩を進めた。ね、と振り返る誠の姿に、
「……あいつ、すげえな」
「ああ……」
 そう浩介とひそひそと会話した後、俺も誠に倣うことにした。

 4人でコツコツ調べて、ロープから2メートルほど内側が沼の淵らしいことが分かった。沼は直径およそ5メートルの楕円形をしているようだ。
 平木が枝の代わりにしていた看板で、沼の表面を突いた。途端にごぽりと立つ水泡に、俺の背筋が粟立った。水。駄目だ。考えたら駄目だ。俺は頭を振って恐怖心を取り除こうとした。
「大きさはそうでもないけど、やっぱり深さは相当あるみたいだな」
「そうみたいだね……これ、表面の藻とか除けることは出来るかなあ」
「どうだろうな」
 ぱちゃぱちゃと水面を突きながら誠と平木が話しているのを、聞きながら、俺は他に何か手がかりになりそうな物を見つけられないかと、周囲を見回した。
 その時、浩介が隣で身震いした。
「……なあ、何か……変な感じ、しねえ?」
 その言葉を聞きながら、俺の背中を冷たい汗が伝う。昨日と同じだ。濃密な気配。誠と平木も同様に感じているのだろう、怪訝な顔をして俺と浩介を振り返った。その2人の肩越しに、俺は見た。
「――ひっ」
 喉が鳴る。浩介には見えないのだろうか、ぽかんと俺の顔と誠たちを見比べているだけだ。
「な、何だよ、どうしたんだよ?!」
 浩介が俺の体を揺する。しかし、俺は何も言えなかった。ただ、沼の上にいる子どもの姿を見つめるしか出来なかった。
 わずかの角度で曲がった首。手は力なく体の横に垂れ、足先は緑の水面に沈んで見えない。その表情は悲しそうにも恨めしそうにも見える。ただ、底の知れない目がたまらなく恐ろしい。光さえも吸収してしまいそうな虚。その奥に何か秘密が、知りたくない、思い出したくない秘密が隠されていそうで恐ろしい。それなのに、俺は子どもから目が離せなかった。
 がくがくと震える指で、何とか子どもを指差した。3人の目が俺の指先を追う。しかし。
「何もないよ」
 馬鹿な。誠の言葉が信じられなかった。子どもは相変わらず沼の上にいて、俺たちを見つめている。すぐそこにいるじゃないか。どうして、あれが見えないっていうんだ!
「お、お前、悪ふざけにも程があるだろ!」
 浩介が怒鳴った。いい加減にしろ! と身を翻して大股に歩き出す。「待てよ、浩介」とその背中を平木が追いかけた。すぐに2人の姿は木立に紛れて見えなくなる。
 誠はいまやすっかり沼に背を向けて、こちらに向かって来ようとしていた。子どもの姿は誠の背に遮られて、俺の視界から完全に遮断されている。
 強烈な胸騒ぎがした。
「ま、まこと」
 口の中で縮こまっていた舌を、何とか動かして誠を呼ぶ。誠は首を傾げながら、そろそろと緑を踏み締めて歩いている。
 ああ、もっと急げよ。急いでくれ! 走り寄り、誠を引き摺ってでも、この場から逃げたかった。けど、どうしたわけか足が動かない。地面に張り付いたように、少しも動かせなかった。
 ごぽり。奇妙な音がした。はっと俺は沼を見る。誠も足を止めて、怪訝そうに沼を振り返った。誠の背後の子どもの姿は消えていた。その代わりのように、それまでは静かだった沼の表面が波打ち始めていた。
 いけない。誠、早くこっちに来いよ。頭の中で警鐘が鳴り響く。頭が割れそうだった。早く誠をこちらに呼ばなくては。でも、気ばかりが焦って、舌が縺れた。言葉が出ない。
 こぽ、ごぽぽ。音はその間隔を短くしていく。誠は、そっと沼の表面を覗き込むようにした。駄目だ。駄目だ駄目だ!
「誠……!」
 地面から、足が離れた。俺は転がるように誠に駆け寄り、腕を掴んだ。驚いたように誠は俺を振り返る。瞠られた目。少し開かれた口。どこかで見たような表情だと思った。その唇が、俺の名を呼んだ。

「達也?」

 俺の体は冷たいものに覆われていた。
 ガボガボと口から大量の水泡が生まれ、それに比例して体内の酸素が少なくなっていく。
 見上げた水面は、白く光り、そこにこちらを見つめる顔があった。あれは、誠ではなく、達也だ。
(まこと? まことって、誰だっけ?)
 失われていく酸素とともに、俺と言う人間を確立する意識も溶けていくようだった。
 今まで、俺は誰と一緒にいた? 俺はここで何をしていた? ……俺は、誰だっけ?
(俺は……達也、だ)
 ようやく自分の名前を思い出した。あれ? でも、もう1人達也と言う名の人間がいたような……。
 不意に足に負荷がかかった。がくんと体がさらに水中に沈む。見下ろすと、足にしがみ付く子どもがいた。白く細い腕をがっちりと俺の足に巻きつけ、頬を俺の膝にあてて、子どもは俺の顔を見つめていた。
 俺は悲鳴を上げた。上げた悲鳴はしかし、再び大量の水泡を生み出すだけ。苦しくて目をつぶった俺の頬に、ひやりと水よりも冷たい感触が触れた。薄く目を開くと、俺の体を這い上がってきたのだろう、子どもの顔があって、小さな指が俺に触れていた。
 その顔に、見覚えがあることに、俺は気付いた。脳の奥底に沈殿していた記憶が、泡のように意識の表面に湧き上がってくる。同時に、脳裏に子どもの声が響いた。
――……思い出しちゃ、駄目。
 だけど、甦り始めた記憶に蓋をすることは出来なかった。
 やがて、雷に打たれるように、俺は全てを思い出した。
 ああ、この子どもは……これは俺だ。
 あの記憶を預けて、ここに捨てた俺の分身。

 あの日、俺はもう1人の達也に沈められたんだ。


 俺と達也は仲が良かった。同じ学年、同じクラス、同じ名前。体格も似ていて、まるで双子のようだった。正反対なのは性格だけ。あいつは俺と違って、聞き分けのいい、大人しい子どもだった。
 だけど、それは俺たち以外の人間がいる場合だけ。俺と2人きりの時、あいつはその優しげな表情と口調はそのまま、残酷なまでに俺を苛め抜いた。
 何があいつの気に入らなかったのか、それは分からない。だけど、俺はそんなあいつが恐ろしくて、逆らえずにいた。
 あの日も、ここを秘密基地にしないかと、あいつは言った。あいつにしてみれば人目を気にせずに、俺を苛められる、いい場所を見つけたと思ったのだろう。しかし、俺はそれに咄嗟に賛成出来なかった。
 出来るはずもないだろう? ここでどんな酷い目に合わされるのか、いくら子どもでも想像がつく。ただ、地面は草でふかふかとして、きっと地面に殴り倒されても、その痛みを少しは緩和してくれそうに思えた。だから、何とか頷いて見せた。
 でも、達也は返事が遅いのが気に入らないと、激昂した。腹を蹴られて、俺は思わず膝をつく。そして草の間に白い塊を見つけたんだ。ボールだ。俺は嬉しくなった。見つけるのに時間がかかれば、きっと達也の機嫌が悪くなるだろうことは、探しに行く前から分かっていたから。
 この広い山の中から、あれを達也が見つけたと皆に伝えれば、あいつは得意満面で今日は俺を苛めないかもしれない。だから俺は痛む腹を押さえて、必死で叫んだ。俺の声でボールを捉えたのだろう、達也の目が嬉しそうに細められるのを見て、俺はほっとした。良かった、機嫌が直ったみたいだ。
 そして達也が駆け出した。俺も立ち上がって、走り出す。そして達也に並んだと思った瞬間に、俺たちは沼に落ちていた。
 俺は、水泳だけは苦手だった。俺の隣で、達也が何とか地面の草を掴むのを、苦しみながらも俺は見た。
 俺も必死にもがくけど、水を吸った服は重くて、俺は泣きながら達也に手を伸ばした。助けてくれると思った。
 だけど、達也はそんな俺の手を見つめたまま、手を伸ばそうともしなかった。驚いたように瞠られた目。わずかに開いた唇が動いて言葉を紡いだ。「そう言えば、泳げないんだっけ」
 限界はすぐに来た。俺の体はゆっくりと沈み始める。
 最初は苦しかった呼吸も、ある時点から楽になった。ふわふわふわふわ、何だか心地いい。
 ああ、もうすでに水面は見えない。俺の周囲は漆黒の闇だった。だけど、俺はちっとも怖くない。それどころか安心してさえいた。
 だって、ここにはもう、俺の怖いものはないから。
 最後に感じたのは、この上ない幸福感だった。

 何もかも思い出すと同時に、子どもの顔が崩れ始めた。水に溶けるように拡散し、千切れ、その欠片も消えていく。
 残ったのは、虚に隠された秘密。それは、俺がここに封印していた恐怖の根源。解き放たれた恐怖は俺の体に潜り込もうとし、その気配に俺は目を固くつぶった。
 どこかで何かが、目を開けろと叫んでいた。でも、俺はそれに抗う。
 目を開けたくないんだ。目を開けたら、俺はあの恐怖と向かい合わなくちゃいけない。
 あの日、達也は俺を見捨てた。(違う、達也も溺れて助ける余裕がなかったんだ。)
 達也は、俺が沈んでいくのを、ただ白々と見つめていたんだ。(違う、達也はどうすればいいのか分からな……)
 達也は、大人たちが思っているような人間じゃないんだ。(違う、達也は……)
 達也を告発する声と、保身の声がせめぎ合う。恐怖は常に保身の声に力を貸し、そうして俺は再び、その記憶を封じるんだ。ほら、いつものように目を閉じて……。
 水中に、俺は一人きりで漂っている。いつしか、緩やかな睡魔が全身を包んでいる。何て気持ちがいいんだろう。ずっとこのままでいたいと願うほど。そうだ、俺はこのままがいいんだ。あんな怖いやつのことなんて、忘れていたいんだ。こうして、穏やかに眠っていたい。

 そして、俺の意識は闇に沈む。


 けたたましい目覚ましの音に、俺は飛び起きた。
 枕元のそれを叩くように止めて、俺はベッドを降りる。もう朝なのか。何だかよく寝たような、そうでもないような、おかしな気分だった。
(なんか、変な夢を見たような気がする……)
 しかし夢の残滓は、思い出そうとすればするほど、消えていく。制服に手を伸ばす頃には、どんな内容だったのか、すっかり忘れていた。……まあ、いいか。どうせ夢だ。
 制服に着替えながら、カレンダーを見る。夏休みまであと少し。今年の夏休みはきっと楽しいものになる予感がした。
 浮き立つ気分で頬を緩ませながら、俺は部屋のドアを開いた。
 











 そこは白い病室だった。
 部屋と同じように白いベッドに横たわっているのは、おれの幼馴染だった。おれが引っ越すまで……あの事故が起こるまで、3軒東隣に住んでいた達也。同じ学年で同じクラスで同じ名前で。達也はやんちゃなところもあったけど、責任感が強いやつだった。
 眠ったまま重ねた年の分、ベッドの上の達也も面変わりしていたけど、当時の面影は残っている。
 おれは、こいつが大嫌いだった。
 何もかもおれと似ているくせに、何もかもおれよりもほんの少し優秀で、誰からも好かれるこいつの、この顔が。
 見つめていると、病室のドアが開いて、女の人が入ってきた。達也のお母さんだ。おばさんはにっこりと笑って、
「今日も来てくれたのね。ありがとう」
「そんな……これくらい、何でもないですから」
 そして枕元の椅子に座って、おれは鞄から出したクラスメイトの写真を広げて話しかける。これが浩介でこれが誠。で、こっちが平木って言うんだ。みんないい奴なんだよ。夏休みには、キャンプに行くんだ。達也も一緒に行こうよ。
 それを、おばさんは嬉しそうに、だけどどこか悲しそうに見つめる。
 おれは昔からおばさんが大好きだった。優しくて温かくて、おれを生んだ女(こいつの浮気のおかげで、おれは引越しするハメになった)とはまるで違っていた。おばさんが優しく達也の名を呼ぶたびに、どうしてその「達也」はおれじゃないのだろう、どうしておばさんがおれのお母さんじゃないんだろうと、どうしようもなく切なくなった。まあ、そのたびに憂さは達也で晴らさせてもらったけど。当然だよね、達也のせいだし。
「そうだ、頂き物の林檎があるの。剥いてくるわね」
 言っておばさんは、病室を出て行った。その背中を見送って、おれは呑気に眠る達也を見下ろした。
「おばさんにあんな顔させるなんて、馬鹿じゃないの? さっさと目を覚ませよ」
 人の目の前で勝手に溺れて、勝手に昏睡状態になって、おれに罪悪感でも感じさせたいわけ?
 医者が言うには、これほど長く眠ったままの理由が分からないらしい。体のどこにも、これと言った異常はないんだって。「まるで、本人が望んで眠ったままでいるようだ」と、ある時医者が呟いたこともあったっけ。何それ、意味が分からないんだけど。
 眠る達也の頭を小突くが、何の反応もないから面白くない。早くまた目を覚まして、おれのおもちゃになってくれないかな。そうなったところを想像しただけで、楽しくてしょうがない。こいつの、悔しそうに、悲しそうに歪んだ時の顔だけは、おれ好きだったんだよね。
 程なくして戻ってきたおばさんがくれた林檎は、甘くて美味しかった。おばさんと少し話をして、おれは帰ることにした。
 じゃあね、と達也に声をかけて、ドアの所でおばさんに頭を下げて、もう一度達也を見た時。

 達也が、幸せそうに微笑んだ気がした。





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